殉教地の歴史について
猪苗代殉教地
この殉教地跡は、昔からキリシタン信者を処刑したとき削ぎ落した耳を埋めた「耳塚」と言われたり、岡越後妻子の墓、あるいは「バテレン塚」と言い継がれ、地元の人々も畏れて手をつけられずに来た。
耶麻郡誌にも「見祢山の谷間にバテレン塚と唱うるもの三つあり、岡越後妻子を埋めし所と云い伝う」と書かれている。
岡越後は、蒲生氏郷の家臣で剛勇をもって知られた猪苗代の城代家老でもあったが、また、熱心なキリシタン信者で城下町に教会堂を建てて、自ら信仰の指導をしたり、見祢山の山麓、岩㟢 神社の西隣にセミナリヨ(神学校)を建てて宣教師を宿泊させて信者の信仰を行ったりした。そのため家臣、領民がことごとくキリシタンになり、神社の神官や僧侶は生活に困り、寺社が衰退したと記録に残っている。
神指黒川キリシタン殉教地
嘉永十二年(1635年)12月17日、田島の水無村で会津キリシタンの中心人物、横沢丹波一族と信者たち、さらにその家の二重壁に隠れていたバテレンなど六十余名が捕らえられ、17日から20日にかけて処刑された。(丹波は熱塩の野辺沢の人)。
丹波は背に南無阿弥陀仏と書かれた板を背負わされ、逆さ磔けの刑に処せられた。その時、幼い子供たちも処刑されたが、彼らは年少にもかかわらず極刑にされることを少しも恐れず殉教した。
逆さ磔けにされた日本人はたいてい二日もすれば絶命するのに、このバテレンは20日に逆磔(さかがけ)にされ、26日の夕刻まで一週間生きていて見物人に強い感銘を与えたという。
また、近くには穢多町(えたまち)側に屋根はあっても壁のない小屋を造り、らい病者でキリシタンになった人を置いて風霜にさらして殺し、これらの死骸を一緒に埋めて塚にしたと言われる。
塚の場所は「西黒川小黒川分の切支丹塚なり」と会津年表にも書かれているが、はっきりした場所については確定しないままに来た。
昭和32年5月、地区整理に当たって今のキリシタン塚の東に橋がかけられたが、この工事に際して近くの堰から土を運んでいたところ、近くに住む岩沢直治氏(当時80歳)が驚いて、「そこを掘れば切支丹が出るぞ」と注意したそうだが、何も知らない人夫たちはその注意を
一笑に付してなおも作業を続けていたところ、一、二日もすると本当に人骨が出て作業を中止したという。
6月23日、会津史談会の友田康雄氏、鈴木茂雄氏ら5名は早速、岩沢直治氏の案内で検分した。両氏は会津旧事雑考、新編會津風土記などの古文献と照らし合わせこの場所が切支丹塚と確信し、昭和36年「会津史談会」36号に研究成果を発表するとともに、関係者と協議してほぼ原形のままで買い取り教会に寄付した。
教会では信徒がお金を出しあって碑と祭壇を建て、昭和37年6月24日にエスカランテ司教臨席の下、リオス神父によって落成のミサが捧げられて今日に至っている。