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2024年11月18日月曜日

 12月ミサ時間

December Mass Time

12月 1日(日)待降節第1主日ミサ午前9:30am
    8日(日)待降節第2主日ミサ午前9:30am
        待降節黙想会 テーマ「回心、聖年」 講和、赦しの秘跡
   15日(日)待降節第3主日ミサ午前9:30am
   22日(日)待降節第4主日ミサ午後2:00pm
   24日(火)主のご降誕夜半ミサ午後5時pm
   25日(水)主のご降誕  ミサ午前9:30am
   29日(日)聖家族    ミサ午後2:00pm

2024年10月18日金曜日


 11月ミサ時間

November Mass Time

11月 1日(金)諸聖人の祭日 初金ミサ午前9:30am
    3日(日)年間第31主日    ミサ午前9:30am
            ベトナム語ミサ午前11:30am
      10日(日)年間第32主日    ミサ午前9:30am
    17日(日)年間第33主日    ミサ午前9:30am
    24日(日)王であるキリスト  ミサ午後2:00pm  
  
11月の活花




2024年3月11日月曜日

2024年 教会の季節の写真

                                         4月14日(日)教会の桜、満開

 
5月19日
4月14日
 
 


2023年2月6日月曜日

 ペトロ高橋恵珉(たかはしけいみん)の子孫を捜しています

 明治26年頃、岩手県盛岡の元僧侶であった高橋恵珉が会津に家族と来て、恵珉は伝導師として、ドシェ師、レイノー師のもとで山口鹿三とともに伝導活動されました。家族は妻エキ、長男幸太郎、次男ジュンイチまでは盛岡で洗礼を受けていることから、長女トミ、次女チカも盛岡で洗礼を受けていたと思われます。恵珉と妻エキは1893年・94年頃、郡山の井越(女性)、渡辺シンメイ(男性)、渡辺スミ(女性)、渡辺ヨウスケ(男性)、渡辺ヨウシロ(男)、1903年に福島の畠山熊太郎などの代父や代母になっていたようです。
 
 ところで、教会所有の豊岡墓地の恵珉の長男の墓石正面の刻字は「天主僕高橋幸太郎乃墓」、裏面は「天主降生千九百四年十月四日没」、「布以 保慈眠待復活栄福」とあります。
 その墓石はかなり大きく地震で傾き、墓地の塀の土台からの全面改修するのに危険で、墓屋さんに依頼し寝かせました。塀の工事も完了し、その墓石をどうしょうということになり、寝かせただけでもそれなりの費用が掛かり、更に元に戻すにはこれまた多額費用が掛かるので、子孫の方がおられたら相談したいので会津若松教会まで連絡をお願いします。 
2023年2月7日
 
その後、高橋恵珉の3男の高橋純一が盛岡の先人たちの項目で、初代信州大学学長であったことが分かりました。。
高橋純一(1887年~1959年)
福島県の旧安積中学を卒業、仙台第二高校を経て、東京帝国大学理科大学地質科を卒業。
1917年金沢の第四高等中学教授、1921年東北帝国大学助教授、戦後、東北大学理学部長となり、その後、1950年新設された信州大学初代学長となられます。
高橋しん(純一の弟)は1894年に郡山で生まれています。
 
高橋恵珉の子孫の方をご存じの方はカトリック会津若松教会まで、電話は神父様不在の時もありますからメールでお知らせください。よろしくお願いします。
メールアドレス CatholicAizu2019@gmail.com


殉教地の歴史について

 猪苗代殉教地

  この殉教地跡は、昔からキリシタン信者を処刑したとき削ぎ落した耳を埋めた「耳塚」と言われたり、岡越後妻子の墓、あるいは「バテレン塚」と言い継がれ、地元の人々も畏れて手をつけられずに来た。
 耶麻郡誌にも「見祢山の谷間にバテレン塚と唱うるもの三つあり、岡越後妻子を埋めし所と云い伝う」と書かれている。
 岡越後は、蒲生氏郷の家臣で剛勇をもって知られた猪苗代の城代家老でもあったが、また、熱心なキリシタン信者で城下町に教会堂を建てて、自ら信仰の指導をしたり、見祢山の山麓、岩㟢 神社の西隣にセミナリヨ(神学校)を建てて宣教師を宿泊させて信者の信仰を行ったりした。そのため家臣、領民がことごとくキリシタンになり、神社の神官や僧侶は生活に困り、寺社が衰退したと記録に残っている。


神指黒川キリシタン殉教地

 
 嘉永十二年(1635年)12月17日、田島の水無村で会津キリシタンの中心人物、横沢丹波一族と信者たち、さらにその家の二重壁に隠れていたバテレンなど六十余名が捕らえられ、17日から20日にかけて処刑された。(丹波は熱塩の野辺沢の人)。
 丹波は背に南無阿弥陀仏と書かれた板を背負わされ、逆さ磔けの刑に処せられた。その時、幼い子供たちも処刑されたが、彼らは年少にもかかわらず極刑にされることを少しも恐れず殉教した。
 逆さ磔けにされた日本人はたいてい二日もすれば絶命するのに、このバテレンは20日に逆磔(さかがけ)にされ、26日の夕刻まで一週間生きていて見物人に強い感銘を与えたという。
 また、近くには穢多町(えたまち)側に屋根はあっても壁のない小屋を造り、らい病者でキリシタンになった人を置いて風霜にさらして殺し、これらの死骸を一緒に埋めて塚にしたと言われる。
 塚の場所は「西黒川小黒川分の切支丹塚なり」と会津年表にも書かれているが、はっきりした場所については確定しないままに来た。
 昭和32年5月、地区整理に当たって今のキリシタン塚の東に橋がかけられたが、この工事に際して近くの堰から土を運んでいたところ、近くに住む岩沢直治氏(当時80歳)が驚いて、「そこを掘れば切支丹が出るぞ」と注意したそうだが、何も知らない人夫たちはその注意を
一笑に付してなおも作業を続けていたところ、一、二日もすると本当に人骨が出て作業を中止したという。
 6月23日、会津史談会の友田康雄氏、鈴木茂雄氏ら5名は早速、岩沢直治氏の案内で検分した。両氏は会津旧事雑考、新編會津風土記などの古文献と照らし合わせこの場所が切支丹塚と確信し、昭和36年「会津史談会」36号に研究成果を発表するとともに、関係者と協議してほぼ原形のままで買い取り教会に寄付した。
 教会では信徒がお金を出しあって碑と祭壇を建て、昭和37年6月24日にエスカランテ司教臨席の下、リオス神父によって落成のミサが捧げられて今日に至っている。


 

 

2022年7月3日日曜日

新しいステンドグラス

 



デザインと制作はステンドグラス作家の野口元彌さんです。

明るい雰囲気になりましたね。

まだお気づきでないかたは、聖堂にお入りの際には、玄関ドアの上にも一度ご注目ください。

2022年1月31日月曜日

ルルドの聖母

 1858年2月11日、フランスのルルドという村に聖母マリアが現れ、その指差したところに泉が湧いたと言われています。その水は医学的奇跡を起こしたともいわれ、その場所には聖母の像も建てられ、現在ではカトリック最大の巡礼地のひとつとなっています。

その場所を模して、会津若松教会の庭にも1940年、森寛助氏の寄付によってルルドのマリア像が建てられました。マリア様の御顔が日本人をモデルに作成されたとして当時から評判になりました。鈴木仁亮作 

会津若松教会にお越しの際は、ぜひお庭のマリア様もご覧ください。


 (会津若松教会のルルドの聖母)

 

カトリック会津若松教会

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